韓国、台湾にある日本建築の保存について |
朝日新聞のアジアの近代建築保存を取り上げる一連の記事は非常に興味深いですね。韓国の事例については、中央日報でも取り上げられています『群山日本式家屋「保存するか開発するか」』韓国側の報道として併せてお読みください。
支配の名残に揺れる 日本統治の遺構 開発と保存(6)
2008年01月08日
■韓国
ここを訪れる日本人はタイムスリップした感覚に襲われるはずだ。
韓国南西部・全羅道の港町、群山市。市中心部には日本の植民地支配時に建てられた日本家屋200戸近くが、今も軒を連ねる。その多くが長屋だ。黒ずんだ木目の壁に、格子や欄干がかかった窓。ハングルの表札や看板がなければ、昭和初めの日本に迷い込んだような気分になる。これだけの日本家屋がまとまって残るのは、韓国でも群山だけだ。
しかし、周りを見渡すと現代的な高層マンションがそびえ、再開発の波が押し寄せている。
瓦屋根の平屋建て長屋から40代の男性が出てきた。「ここは日本が半島から米を奪うために作った収奪の街、長屋は日帝の名残だ。残ったのは年寄りばかりだし、みんな補償金をもらって最新のマンションに住みたいと思ってるよ」
群山の長屋は人の手で保存されてきたのではない。国から捨てられたために残ってしまったのだ。
群山は1899年の開港後、背後に広がる平野で取れる米を日本に輸出する前線基地として発展した。1910年代は約7000人の人口の半分が日本人で、多くの日本家屋が建てられた。
解放後、60年代から80年代を通じて韓国は急成長を遂げた。だが、歴代政権は長く南東部・慶尚道を政治的基盤としたため、歴史的に対立してきた全羅道は徹底的に疎外された。日本家屋は「敵産家屋」と呼ばれる植民地支配の象徴だが、開発から漏れ、主に低所得者たちが住んだ。
今、そんな長屋を保存しようという動きが活発化している。円光大学の李庚賛教授(都市工学)は市職員らを現地調査に連れだし、保存の必要性を訴え続けてきた。かつてここで暮らした日本人が再訪する例を挙げ、「観光資源として、また韓日の人たちが歴史を学ぶ場として活用しなければ」と話す。群山の街並みを利用した映画撮影が増えていることもあり、主力産業がない市は、見向きもしなかった長屋に経済価値を見いだした。07年3月、日本家屋などの保存を支援する条例を制定した。
しかし、市民の視線は冷めている。条例では日本家屋の改修や補修にかかる費用の3割を、1000万ウォン(約115万円)を上限に市が補助するが、「今のところ申請は1件もない」(市都市計画課)。市民が望むのは、これまで手にできなかった開発による恩恵だ。
李教授は「市民には日本支配の残留物という意識がまだ残る」と話す。市側も「住民の同意を得て街全体を保存するのは難しい」と悩む。
長く国と時代から取り残された長屋は、皮肉にも保存活動によって、再び時を止めかねないジレンマに陥っている。(群山=神谷毅)
■台湾
日本統治の痕跡を、後世にどう残すか——。同じ悩みは台湾にもある。
台湾北部の桃園県。小高い丘の上に構える鳥居の奥に、こぢんまりとした神社があった。こま犬を両脇に従えたひのき造りの門。境内は高い木々に囲まれ、柔らかな静寂に包まれる。
日本は台湾統治時代、台北や高雄など各地に神社を建立した。ここ、「桃園神社」もその一つだ。38年に落成し、戦後は殉職した国民党兵士らを祭る「忠烈祠(し)」になった。運命の分かれ目は72年の日台断交。反日機運の高まりで各地の神社が取り壊されたが、桃園では「文化的価値」を唱える地元民や郷土史家らの意見が撤去の声を抑えた。
陳学聖・桃園県文化局長は「戦前の日本はアジアに数多くの神社を造ったが、原形が残るのは桃園だけです」と話す。
ただ、地元でも、日本統治を受けた台湾出身の本省人と、抗日戦争を戦って大陸から渡ってきた外省人とでは意識が違う。
「本省人はあまり気にしないが、外省人には神社建築にまだ拒否反応がある。貴重な文化財だが、観光地として大々的に宣伝しにくい面もある」
本殿に歴代県長の揮毫(きごう)を掲げ、社務所を地域の集会場に利用するなど、地元との融和に工夫を凝らす。
台湾全体では、約120カ所の日本統治時代の建築物が当局から史跡や歴史建築に指定され、保護を受ける。外省人中心の国民党独裁時代も旧台湾総督府を総統府として使うなどの活用はしたが、00年に本省人主体の民進党政権誕生後、こうした動きが加速した。99年の台湾大地震で保護の重要性が見直されたことも影響した。
台湾総督官邸だった台北市の台北賓館は国家級の史跡。バロック風の壮麗な建築で、内部には台湾一と言われる日本庭園があり、戦後も迎賓館に使われた。06年には4.2億台湾ドル(約14億円)を費やしてリニューアル。今も総統主催の催しで使う一方、市民への一般公開も始まった。
南部の台南市では、かつての「台南州庁」が生まれ変わった。16年に建築され、戦後は空軍と市が利用。97年に史跡となった。
02年までの修復には最大規模の7.8億台湾ドルが投じられた。過去の粗雑な修理や老朽化で完成当時の面影を失っていたため、市は日本の財団法人「文化財建造物保存技術協会」などに人員を派遣し、助言を求めた。当時の建築理念から窓枠の材質まで丹念に調べあげ、復元に取り組んだ。
行政院文化建設委員会の林堂盛・工程監督科長は「台湾には多様な歴史と文化がある。日本時代は多くの建造物が建てられ、台湾の建築文化に多大な影響を与えた。残された日本建築はそうした歴史の証明になる」と話す。(桃園=野嶋剛)