横浜・東西上屋倉庫の取り壊しについて、神奈川新聞がオーナーのコメントを取り上げています。
東西上屋倉庫(右側の建物)前の「東西プール」は、はしけで埋まっていた=1961年、本社チャーター機より
解体進む活況の象徴/東西上屋倉庫
神奈川新聞:2008/04/12
終戦間もないころに建てられ、横浜港の貿易を支えた「東西上屋(うわや)倉庫」(横浜市中区海岸通)の取り壊しが、三月から進められている。港湾物流のかつての中心地に、最後まで残った現役の保税倉庫。ここで半世紀以上を過ごした社長の渡邉清治郎さん(81)の記憶は、建物が形を失うにつれ、むしろより鮮やかによみがえる。
「はしけが渋滞して、百メートルもないところを一時間もかかったんですよ」。渡邉さんは、昭和二十年代の白黒写真を指さしながら、懐かしそうに話す。倉庫前の港内、通称「東西プール」には、はしけがぎっしり。沖にいかりを下ろした本船から荷物を載せ替え、陸揚げするためだ。
設立当初はまだ貿易が自由化されておらず、ララ物資と呼ばれた古衣料や脱脂粉乳などの援助物資を収めた。自由化後は米国向けのサンマ、イワシの缶詰を貨車で運び入れ、返す貨車で輸入品の農村向け肥料を積み出す日々。「昭和三、四十年代ごろが一番忙しかった。会社に泊まり込んだこともありましたね」
そのころ、数十人の港湾労働者が常に立ち働いていたという。重さ百三十キロにもなるキューバ糖の麻袋を担ぐつわものや、その袋を縫い合わせる女性たち。半長靴の中にドスを仕込んだ親方。貨車の中では休憩中の人々がばくちを打ち、沖から戻った男たちは屋台でどんぶり飯をかっ込んだ…。渡邉さんが今も思い出す、往時の活況ぶりだ。
陰りが見え始めたのは一九七〇年代半ば。じかに品物を積む在来船からコンテナ船へと、物流の在り方そのものが大きく変わり、周辺の同業者も本牧や大黒などの新しいふ頭に移っていった。
それでも渡邉さんにとっては、今なお「ここが一等地」。横浜港があんまり変な格好じゃあいけない-と、クイーン・エリザベス2(QE2)の数年ごとの入港のたびに、倉庫の大屋根を塗り直してきた。「大さん橋から見るとね、緑色の屋根がものすごく鮮やかでしたよ」
その緑色の大屋根も、すでにない。倉庫機能は六月に、三キロほど離れた同区本牧ふ頭に移転する。「できればこの場所で商売を続けたかった。わたしの青春の場所ですから」と渡邉さん。本社だけは現在地の近くにとどめ、変わりゆく港を見守るつもりでいる。