村野藤吾が設計した千里ニュータウンの「南センタービル」(1964年)と「千里市民センター」(1978年)が取り壊されるそうです。保存要望書を提出した方へのインタビューを読売新聞が伝えています。
街のあした 千里ニュータウン 《3》村野藤吾 名建築 開発時の情熱伝える
読売新聞:2008/5/20
「豊かな住環境」を象徴
1963年秋。中道春樹さん(74)は高槻市の会社の独身寮から、結婚を機に千里ニュータウンに引っ越した。吹田市高野台の戸建て住宅。府の担当者が地図を広げながら熱心に説明する「豊かな住環境」に可能性を感じ、入居を決めた。
あれから45年。緑が多く、静かな環境を気に入っており「ここに住んで良かった」と思っているが、気がかりなことがある。
阪急南千里駅東側にある「南センタービル」(64年築、府タウン管理財団・吹田市所有)と「千里市民センター」(78年築、同市所有)。いずれも日本を代表する建築家、村野藤吾(1891〜1984)の設計だ。幾何学模様に配置された窓が特徴的だが、老朽化などを理由に2011年以降の解体が決まっている。
□ ■
大階段と広い踊り場で、吹き抜けを演出した南センタービル内の空間。中道さんは駅を利用する時、いつもそこを通る。「効率だけを追求するなら無駄な空間かも。でも、この優雅さにニュータウン開発当時の情熱を感じる」
中道さんは2月、両建築の保存要望書を1人で府と市に提出した。しかし、府の外郭団体の府タウン管理財団などは「老朽化した建物の維持管理は費用がかかる。段差をなくすなどバリアフリー対策も不十分」と解体方針を変えていない。跡地は半分程度が公共広場になるが、ほかは民間に売却される見通しだ。
■ □
中道さんは設計や建築などを学んだことがない「素人」。それでも両建築の独特の外観や造りには、どこか風格を感じる。「解体されてしまえば、ニュータウンの歴史の一つが失われる。そんな気がするんです」。寂しげな表情で中道さんがつぶやいた。
◆「空間体験」思想残すべき
恐らく村野は両建築を通して、後世の私たちに受け継いでほしい何かがあったはずである。彼は自身の設計姿勢を「99%の設計条件、1%の村野」と表現した。建築の99%にニュータウンのセンスが込められ、空間の組み立て方に1%の遺伝子が刻み込まれているという意味だ。
建設当時、ホームから2階に下り、阪急南千里駅の改札を出た人は、ダイナミックな新しい街の風景と出会った。ホームと立体交差するブリッジ(通路)を東に歩けば、右手に華麗なセンタービル、左手眼下に石畳の広場。センタービルに入り、緩やかな勾配(こうばい)の大階段を下りると、やがて広場に導かれる。ビル内のホールで演奏会がある日には、奏者と聴衆はガラス越しに見える広場の景観に感動を覚えただろう。
つまり、村野の遺伝子とは、ブリッジ、大階段、広場の関係から「空間体験」を生み出そうとする思想なのであろう。しかし、広場は再開発ですでになく、センタービルやブリッジの解体も決まっている。
後から街や建物に手を加えようとする私たちには、建物の形態だけではなく、そこに込められた思想を理解し尊重する義務がある。だからこそ私たちは、世界に誇る日本人建築家の遺伝子が込められた建築をどのように導くべきか再考しなければならない。