九月末に旧日本軍の施設を前身とする「乗鞍山荘」が解体されたそうです。信濃毎日新聞が関係者へのインタビューなどを記事にしています。
飛騨高山タウン情報誌さるぼぼ倶楽部によれば旧陸軍の乗鞍航空実験場は1941年に建設され、その後国鉄に払い下げられて乗鞍山荘となったものだそうです。
姿消す本土防空の一舞台 乗鞍山頂の戦闘機実験場解体
信濃毎日新聞:2008.11.04
第2次大戦中に旧日本軍の陸軍航空技術研究所が、長野・岐阜県境の乗鞍岳(3、026メートル)山頂近くに建てた実験所を前身とする「乗鞍山荘」が今秋、老朽化などで解体された。高度約1万メートルを飛ぶ米軍のB29爆撃機に対抗する戦闘機のエンジン改良を極秘に進めた場所で、軍が造ったアクセス道路が今の乗鞍スカイラインのもとになった。本土防空に向けた歴史の一舞台が消えたことを惜しみつつ、平和への願いを新たにする人も少なくない。
実験所は岐阜側の畳平(標高約2700メートル)に一部二階建てで建設。空気の薄い高高度を飛ぶため過給機(ターボチャージャー)を備えたエンジンの開発が目的で、1944(昭和19)年5月ごろから、約80人の技術将校や学生らがグループごとに試作エンジンとともに運ばれ、10日間程度ずつ実験したという。
東京工大名誉教授の一色尚次さん(86)=東京都=は、東大で航空工学を学んでいた同年4月、同研究所に動員され、10月に技術将校2人と実験所へ。「高高度の寒さを想定し、毎日午前2時から5時まで、屋外でエンジンをつなげた模型の操縦席内で計器を見つめてデータを記録した」。潤滑油内の空気だまりを抑える実験でエンジンを火鉢で温め、漏れた油が燃え上がる騒ぎもあった。
高高度用のエンジンは資材不足などで実用化はならなかったとされている。ただ、一色さんは「実験所での成果を生かした改良エンジンが多くの戦闘機に搭載された」という。同年11月から日本本土は本格的にB29の襲撃を受け、友人の弟が戦闘機でB29に体当たりして死んだことを新聞記事で知った。当時は「悲しみより、改良したエンジンでB29を撃墜できたことや体当たりしたことをすごいと思った」と打ち明ける。
戦後は旧運輸省に勤めた後、東工大などで教え、日本機械学会長も務めた。実験所で一緒だった技術将校や東大生は大学の研究者や自動車メーカーの役員になった。一色さんは、実験所で培った技術も戦後復興を支えたと考える一方、再び兵器製造を求められたとしたら「拒否する。兵器は人を殺すものだ」と話す。
実験所は戦後、国鉄に所有が移って乗鞍山荘となり、その後JR東海が管理。この間、建て増ししながら観光客や登山客を受け入れた。だが老朽化や、2003年度からのマイカー規制に伴う利用客減少などで07年3月末に閉鎖、今年9月末に解体された。
閉鎖まで約10年間、山荘支配人だった森本三継さん(66)=岐阜県飛騨市=は、乗鞍スカイラインができた経緯を宿泊客らに説明して驚かれたと振り返り、「歴史を語る建物として、できれば残してほしかった」と話した。